宝塚に恋をして

私が恋した宝塚について徒然に。。

心中・恋の大和路を観て

『心中・恋の大和路』は前回の雪組公演では諸事情でスルーしていた。でも今回は贔屓が出演するので何としてでも観なければならなくなって、私にとって面白い巡り合わせの作品だなとぼんやり思っている。

決して好みの作品ではないけど、観劇を重ねるごとに作品の持つ力と魅力に引き込まれていき暫くその余韻に浸っていたくらい味わい深いものだった。

 

ドラマシティで観たのは幕が開いて2日目(7/21)の11時半公演だったので、これからこの演目がどう進化していくのかと少し先の青年館で観るのをとても楽しみに思った。

だから、致し方ないとはいえ公演が期間途中で中止になってしまったことは作品が成長し深化していく面を考えてもとても残念に感じた。

 

当初の大千秋楽がまさかの初日になった8/9の15時半公演は、想像以上に公演が止まり上演期間が空いてしまったことの影響を感じてしまった。

どこが とか、誰が とかではなくて。全体的な集中力とか熱量とかリズムとかの舞台を形作る様々な要素の些細なことだと思うけれど、そういった小さな積み重ねが大きな差になることを目の当たりにした気がする。

舞台は初日の幕が開いてから個々とカンパニー全体での経験が日々少しずつ積み重ねられていくことが観劇の度に感じる「進化」に繋がっているんだと思う。

そして、それは毎日公演が続いているからこそ得られていたものだということと、それが急に途切れてしまうことの残酷さを痛感せずにはいられなかった。

日々更に良いものをと舞台に立っているカンパニーメンバーの目指す先が自然と同じ方向、同じ頂になり高まってゆくエネルギーが一旦分断されてしまってから回復することの大変さを感じた。

役者が噛んでしまったとかは実は思いの外些細なことなんだなとも。

 

だからほんの少しだけ‥あと2回で大楽を迎えることに不安を覚えた。

(もしかしたら、私がこの話自体をあまり得意ではなく話にあまり入り込めないためにそう感じてしまっただけかもしれないけれど‥)

 

青年館での追加公演となった8/10は15時半公演を観劇しました。

終演後すぐに立ち上がれないほど放心していることに立とうとして初めて気が付いた。

感動して大喝采とかではないのだけれど、なんかすごい回を観ることができたぞということをじわじわと実感するような回だった。

 

正直、私はこのお話に共感できる人はいないし、没頭できる要素もほぼ皆無なのでどうしても一歩引いて観てしまいがちになる。

それなのに、この回は気が付いたらこの世界にどっぷりはまっていた。

この作り上げられたいわゆる嘘の世界が本当に実在しているかのような感覚になって、大門を出るかもん太夫を見送る場面では、晴れやかに廓を出る者と残される者の哀愁を感じ、槌屋の可愛い禿もいずれ姉さん達のような遊女になって苦労をするのかと思ったら無性に悲しくなってきてしまったし、忠兵衛が大罪を犯した後、亀屋の伊兵衛や与平、おまんに庄介、三太はどうなってしまうのかなと心配になってしまった。

確かにあの時あの空間に江戸時代大坂の亀屋や槌屋が存在していた、ということを強く感じた回だった。

 

演者側の集中力と客席の集中力と自分のコンディションと‥様々な条件が重なって達成される最高の演劇体験をさせてもらえた幸せな回でした。

日本青年館という劇場の規模もよかったのかもしれない。

 

DCから一番進化を感じてよりこの世界観にはまったと感じたのは諏訪さんだったんだけれど、この日はこの令和版「心中・恋の大和路」与平の決定版だったように感じた。

「そんなんじゃお嫁さんもらえない」とおまんに軽口を叩かれるのも納得の真面目一本で少し冴えない朴訥とした感じがよく出ていた。

また、そら忠兵衛は柔らかで角がないタイプだから、同じタイプの与平とすごく合っているなと感じた。

壮忠兵衛は角があるタイプだったから、その美貌も相まって角があるタイプのれいこ与平と相性がよかったんだなとも思った。

そら忠兵衛とすわっち与平は似たような丸さがありながら、片や浮き足立っていて正に年中お花畑、片やどこまでも真面目一本気で地に足がしっかりついているという対比もよかったなと思う。

 

そんなことを考えているうちに、そうか!演者それぞれの個性を活かしつつ、ベストと思われる組み合わせとバランスを作り上げているのか!?谷先生!と気付いて。その絶妙さに谷先生天才かなと思った。

 

この作品の中で私の涙腺を刺激するのは八右衛門の友を思う気持ちだった。どの場面かは観る回によって違うけれど、この日は新口村で忠兵衛と梅川に路銀と炒り豆を渡すところでグッときた。

路銀と炒り豆を差し出す手に八右衛門の友を思う気持ちの全てがこもっていてその差し出すという動作にウルっとした。

この作品は型があると谷先生が仰っていたように、この場面のこの台詞の時にはこの動作というのが定型としてあるのだと思う。

だから、この場面で八右衛門がこのように手を出すというのはもうわかりきったことなのだけど、千秋楽公演ではこの箇所で感情を揺さぶられて涙腺が刺激された。

八右衛門の友をおもう大きな優しさに心底切なくなって、この立派な人にこれだけ気に掛けてもらえる忠兵衛はそんなにクズではないのかもしれない、などとこの最後の最後になって思えるほど立派な商人だった。凪七さんの人の良さ人格の素晴らしさが反映されたような八右衛門だったんだろうな。。切ない。

 

そういえば、DCで観た時は専科さんの存在の大きさとその力量の違いにひれ伏す思いだった。専科さんが出てくるだけで場が締まるし板の上での求心力も段違いだった。

だから飛脚宿衆のまとめ役に悠真さんが配されたのも納得だったし、凪七さんが登場するだけでこんなにも場面が締まるのかということにも驚いた。

いや、凪七さんをみくびっていたとかではなくて。私が彼女を一番観ていたのが宙組時代だったのでそこから年月を経てこんなにも素晴らしい舞台人になられていたのか!とあらためてその成長に感心をした。

DCでの観劇はまだ初日が開いて二日目だったこともあってか専科さんと歴然とした差があったのだけれど、青年館で観た際にはそこまで気にならなかったから、専科さんと一緒にお芝居をさせていただくことによって得られるもの培われる力というのは確実にあるんだなということを目の当たりにして、専科祭りな次作も楽しみに思えた。

 

東京では2日3公演となってしまったけれど、大千秋楽の公演はそのことを全く感じることのない素晴らしいという言葉が陳腐に思えるくらい素晴らしい公演でした。

初日の心配は杞憂に過ぎなかった。

この回は演者全員が深く澄んだ無駄のないエネルギーで舞台を作り上げていることが感じられて、そしてこの短期間にここまで深化し、高みに到達することができていることに驚いたし感動した。

起こってしまったマイナスな出来事をむやみにプラス変換するのは好きではないのだけれど、この千秋楽公演に関しては中止期間があったからこそ到達できた境地なのではと思えるような出来ばえだった。

その回を劇場で観ることができ更に映像として残るというのは望外の喜びで、それはきっと一生忘れない。